洞窟の人間たち

 ある日、若いワジが息せき切って集会所へ飛び込んできた。
「みんな、聞いてくれ。メは……俺たちの『メ』は、ちゃんと使えるものだったんだ!」

 その日以来、彼らの生活は一変した。
 メ――彼らの顔に付いている、使い道の分からなかった器官を、使うようになったのだ。
 誰もが最初は、ワジの話を疑っていた。ワジといえばのろまで不器用で、頭の回転もあまり早くなかった。つまり、役に立たない人間だったのだ。
 村の中での彼のあだ名は「メ」である。先祖代々洞窟の中で生きてきた彼らは光を知らず、従ってメの出番はなかった。
 もちろん、ちらちらする幻を感じることはあったし、それがメのせいなのは分かっていた。が、それは触れもせず匂いもなく、しかも誰一人同じ幻は出ない。
 つまり「メ(目)」とは、何のためにあるのか分からないものの代名詞だった。
 そのメに、あのワジが使い道をもたらした。
 匂いも、音も届かないような遠くの物も、メを向ければ分かるという。手探りせずとも、言葉で知らさずとも、メで感じるだけであらかじめ察知できるのだ。
 そんな馬鹿なことがあるものか。初めは笑い飛ばした者たちが、一人、また一人と、ワジについていった。
 延々歩かされ、もう戻れなくなるのではと恐れ始めた頃、奇妙な現象が起こり始めた。
 メの裏にいつもちらちらしていた幻が、ちらつかなくなった。どころか、幻は次第に広がり、メを占領してしまった。
 顔の向きを変えると、その分だけ幻も動く。完全に自分の動きを追っているのだ。
 その中に、いくつもの小さな幻が動いていた。
「ワジ、どうなってるんだ」
 たまりかねて一人が聞いた。
「それは俺たちだ」
 笑いながらワジが言った。
「手を伸ばしてみろよ」
 おずおず手を伸ばした彼らは、小さな幻――他の仲間たちに触れた。そして同じように触った大きな幻は、彼ら自身がこれまで暮らしていた、洞窟の壁そのものだったのだ。
 メをつぶると、それは消えた。が、メを開くと、それは確かに現れた。幻は今や幻でなく、現実としてそこにあった。手探りせずとも、言葉で知らせずとも、メで感じるだけで本当にわかるのだ。
 さらに歩くに従って、現実はいよいよはっきり、その姿を表し始めた。彼らはお互いの顔を見、自分自身の体を見、しだいに細かくなる壁のありさまを見た。
 やがて洞窟が尽き――壁がすっかりなくなった時、彼らは全てを――色と、形と、距離に溢れかえった「風景」を見た。

 噂はたちまち広まり、誰もがメのとりこになった。匂いも音もない物を感じられるとはどういうことだ?
はるか遠くにある物の存在を、居ながらに感じられるというのは?
その場にいる全員が全く同じ幻を――いや、もう幻とは言えないが――感じるというのは?
 すぐに村全体が洞窟の出口近くに移され、みなが様々な物を見始めた。
 そう。見る、ということが始まったのだ。
 色という概念に名前がつけられ、絵が描かれ始めた。さらに言葉に応じて文字が発明され、色々なことを文章で伝えるようになった。
 彼らの世界は、飛躍的に広がった。

 * * *

 問題も起こるようになった。
 まず些細なことだが、盗み食いや逢引きができなくなった。
 これまで暗闇に隠されていたことが、文字通り明るみにでるようになったのだ。人々は仲間うちで何となく距離をとり、用心するようになった。
 同時に、見えない部分には気を使わなくなった。
 足元に石が落ちていたとして、気付いた者は避けるが、気づかない者はそれを踏んづけ、怪我をするようになった。これまでは用心し、また仲間同士で教え合ってきたことだ。
「見れば分かる」が合言葉になり、伝言は洞窟の壁に書かれ、品物は声で説明されないまま無造作にやり取りされた。
 綺麗な動物の皮や貝殻や石が集められ、さかんにやり取りされ、時には盗まれた。
 花の色やら、雲の動きやら、見ることはいくらでもあったので、人々はそれらに夢中になり、語り部の話す物語は忘れられた。
 それでも、人々は見ることをやめなかった。暗闇の生活に戻ることはもうできなかったのだ。

* * *

 英雄となったワジはある日、洞窟の奥を目指した。
 そこはかつて村があったところで、光のある生活に嫌気がさした者たちが戻り、住んでいた。
 村が二つに割れることを恐れ――本当は、自分の勢力が及ばなくなることを恐れ――ワジは彼らを説得して連れ戻そうとしたのだった。
 だが久しぶりに入る洞窟の中は予想以上に暗く、入り組んでおり、ワジをたじろがせた。
 信じられなかった。自分も昔、こんなところに住んでいたなど。
 もうそろそろ着くはずだが。いや、そもそもこちらでよかったのか?
 じわじわ膨らんできた不安にワジが脅かされ始めた時、向こうからひたひたと足音が聞こえてきた。
「誰だ」
 引きつった声で叫ぶと、静かな声が返ってきた。
「その声はワジだね。私だ、語り部だよ」
「爺さんか」
 ワジは胸をなで下ろした。
「珍しいね、お前がくるなんて。まあいい、ついておいで」
 言うなり老人はすたすた歩き出し、足音はすぐに遠くなった。
「ま、待ってくれ。歩き方を忘れてしまった」
 ワジは情けない声を出した。英雄の誇りなどと言っている場合ではない。
「そうかい。じゃ、手をお出し。今どの辺りにいるかね」
 ワジは空中に手を出し、こっち、こっち、と言い続けた。暗闇の中で場所を教える、昔通りのやり方だ。
 すぐに人間の指先が触れ、ワジの手を握った。とてつもない安堵感。
「この辺りは平らだからね。ま、ゆっくりお歩き」
 語り部の老人に従い、ワジは曲がりくねった道をひたすら歩いた。光がないというのに老人はすたすた進み、右にあれがある、足元がこうなっているとワジに教え続けた。
 やがて老人が足を止め、声を出した。
「語り部が戻った。客人が一緒だ」
 そして、小声でワジに囁いた。
「さ、集会所に着いたぞ。入る時の作法は覚えているな?」
 ワジは軽く息を吸い、声をあげた。
「ワジが戻った」
 闇のそこここから軽いどよめき。どうやら十人は居そうだ。

* * *

 意外にもワジは歓迎された。
 あちこちから名乗りが上がり、食べ物の鉢が回されてきた。見えないくせに、指で触り、口に入れればすぐに何だかわかるのだ。コケ菓子も、コウモリの肉も、ずいぶん懐かしい味だった。
 その間にも活発に声が飛んでいた。外の者たちの消息を聞く声、最近の暮らしを語る声。合間合間に誰かが身動きするたび、いま台所へ行くよ、だの、この辺りを通るよ、だの、教え合う声が流れる。暗闇の中は無ではなく、音や匂いが満ち溢れていた。
 それらがひと段落ついたころ、誰からともなく語り部に声がかかった。
 そして、語り部がゆったりと物語を語り始めた。
 外の世界では退屈で仕方なかったそれを、ワジは黙って聞いた。全身を耳にして誰かの話を聴くのは、そういえば洞窟を出て以来、初めてだ。
「俺は間違っていただろうか」
 やがて、ワジはぼそりと言った。
「俺は目の使い方を見つけた。それで、ようやくみんなの役に立てたと思っていたんだ」
 皆が静まる気配。
「しかし、外の世界ではみんな、目に夢中だ。見えるものしか当てにせず、それが当たり前になってしまった」
 と、ワジの横から鈴の音がした。
「ワジ、イリがお前と話したいそうだ」
「イリ?」
 意外な名前だった。イリは口の利けない娘で、真っ先に外に移住して、文字を発明したのだ。
「お前、洞窟の中ではあれだけ不自由していたじゃないか」
 首をかしげるワジの手を、細い指が握った。イリだ。すぐに、その指がワジの手の甲を叩き始めた。声が出せないイリの信号だ。
『ワジ。私は外の世界が好きよ。喋れなくても、みんな私の姿が見えるし、文字で話ができるから』
「なのに、戻ったのか」
『だから、戻ったの。ここの人たち、目で感じられないのよ』
 ワジはどきりとした。そういえばそうだった。皆ができた「見る」ということを、どうしてもできないと言う者たちがいたのだ。
『外の世界じゃ、この人たち、私と同じになってしまうわ』
「それは……考えなかったな」
「イリは自分で戻ってきたのだ。貝殻の鈴をいくつも身につけて。ちょうどお前とわしが会った、真っ暗な辺りまで」
「…………」
「本当を言うとな、ワジ。皆が洞窟にいた頃、わしらも正直、イリを軽く見ておった。暗闇を忘れたお前たちを、わしらは笑ってはいけないな」
 まったくの沈黙。
 やがて、貝殻の鈴が鳴った。
『ねえ。私、語り部のお話、大好きなの。外の世界で全部、文字に残すつもりよ。外の世界のことも覚えて、ここで語り部に話してもらうの』
「村を二つに分けておくのか」
『いいえ。二つでひとつの村よ。私たち、二つの世界を持てるの。あなたのおかげよ、ワジ』
「……俺は、村を無理やり外の世界に移そうとしただけだ」
「だが、多くの者が従った。イリも文字を手に入れた。お前を役立たずと言ったのは取り消さねばならん」
「…………」
「ワジ。時々でいい、皆をこちらへ連れて来てくれ。そしてたまには、わしらも外へ連れて行っておくれ。イリと二人で、この村を今の形のまま、ひとつに繋いでおいてほしい」

* * *

 その村がどこにあったのか、正確な記録は残っていない。
 だが、手すりや鎖を頼りに、真っ暗な洞窟へ降りて行く習慣は世界各地にある。そのうちの一つがこうした村でなかったとは、決して言えないのだ。

(了)

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